新コーナーをスタートしました。

ギルギルタウン社員が読んだ本を紹介する、選書コーナーです。

初回から陰惨極まりない本を紹介する陰キャ代表大矢根です。よろしくお願いします。

Contents

  1. 書籍概要
  2. 絶望の記録
  3. 希望の木漏れ日

書籍概要

書籍名

ものいわぬ農民

著者

大牟羅良

初版年月日

1958年2月17日

出版元

岩波書店

本書は岩手県の山村に生まれ、満州国(当時)に渡り、宮古島で兵士として終戦を迎えた著者が、戦後に郷里の部落(あえてこう表現)を渡り歩いて行商した日々の記録を中心に構成されています。著者は行商生活ののちに出版へ携わるようになり、自身の行商生活で収集した情報や、実際の投書を紹介する「岩手の保健」を出版します。

本書は貧困という表現すら生ぬるい土地で、「生とは何か」という問いを立てる意思さえも摘まれた人々の言葉を囲炉裏端で拾い集めて構成されています。統計や正式な調査に対して、語られることのない農村の本音を紹介することで、著者は生身の対話を通した実践的かつ漸進的な改善を呼びかけています。

絶望の記録

戦後を迎えても乳幼児死亡率4.5%という多産多死の岩手県。そのなかでも特に貧困にあえぐ県北の農村では、当時子どもの半数が小学校入学を迎えられずに落命していました。その窮状を、著者は序章の最後で以下のように述べています。

「あの子は生まれつきよわくてなス、あれぐれぇしか、命っコ貰って来ながったんべ」とさびしくあきらめ、その反面で「なじょにしても生きかえらねぇず(という)ごどががわかっても、面っコみればメンコクて、なんたって側から離したくなくて……」こう言って泣いているのです。こうして岩手の赤ちゃんたちが、その誕生日すら迎えずに、アッパ(母ちゃん)とも呼べぬ中に、あの紅い唇をとじて、山腹の墓地に永遠の眠りについています。
「ものいわぬ農民」39ページ

著者が岩手を渡り歩いた時期が1年間の捕虜生活から復員後間もない時期からの4年間と記されているので、上記の場面は1947年から1951年にかけて見聞された出来事です。

戦争の傷口がふさがり始め、経済白書が「もはや戦後ではない」と記したのが1956年、東京タワーの竣工が1958年。銀座の街が不夜城として輝きを取り戻した同じ国の、同じ時代に、岩手の農村では小さな命がひとつ、またひとつと消えていました。

エジコ(赤ちゃんを入れるワラかご)で眠っている赤んぼの前に、白米のメシが置いてあった。のぞきこむと、赤んぼは死んでいた。前から熱があったのだが、忙しいので医者に行くのを節句休みまで伸ばした。その日母親は朝から盛岡に出た。医者は往診で留守、別の医者を探しているうちに、背中の赤んぼが冷たくなった……

役場まで埋葬許可証をとりにいった父親が、自転車で帰ってきた。酔っていた。家につくと、自転車を押し倒して泣いた。「百姓はじぇ、働がねぇば食えねぇじぇ。食うべぇと思えばワラスは見られねぇ。見ないでいれば、こっただ(こんな)ことになる……」倒れた自転車のうしろにトマトとキャベツの苗が泥だらけだった。
「ものいわぬ農民」8ページ

ここまでで気分が悪くなった方は本自体を読まなくても大丈夫です。僕はこの本を読んでまる2日体調を崩しました。

ほかにもありとあらゆる自由を奪われてうつろげに口をつぐむ「ヨメ」や、戦争で息子を失った女性が自家醸造していた酒を密造だとして警察に引っ立てられた話など、農村の因習と貧困が滔々とつづられているのですが、大幅に省略します。

希望の木漏れ日

本書の後半には、行商生活を終えて編集者になった著者の実体験として、生活に入り込まないまま生活者の本音を聞き出す難しさと大切さが記されています。

ある家では夕飯を馳走してくれました。米のメシに、さしみ、お吸物、それに清酒までっついたお膳です。行商時代だと、おそらく稗のメシに大根のガックラ漬を出してくれたような家がです。(中略)ご馳走が稗のメシから米のメシに変っているように、話そのものも来客用なんだ(攻略)
「ものいわぬ農民」122ページ

僕はこの記述に希望を感ぜずにはいられませんでした。

絶望の崖から対岸の希望へと橋を渡すためには、足元の現実を照らす光が必要です。
現実と目的地さえ見えれば、架けるべき橋の形、つまり、やるべきことの輪郭が見えてくるはずです。

僕は本書を読んで、「その光は現場の当事者になることだ」と思いました。
製造業からコンサルまで、幅広い業態でささやかれる「現場主義」よりも踏み込んで、当事者になる必要があるという意味です。

筆者が生活の中に入り込む行商生活では聞けた話が、観察者になった途端に聞けなくなるのです。

当事者にしか聞こえない声こそが、当事者が外に洩らせない痛切な痛みです。
「今から死ぬぞ」と言って本当に死ぬ人は少なく、ほとんどの自殺者がものいわぬ市民として静かにその生に幕を下ろします。

確かに観察者としての客観性は多くの場面で必要でしょう。
しかし、その客観性は当事者と協力者を隔てる見えない壁を両者の間に生み出してしまいます。

裏を返せば、客観性から得られる多少の視座をかなぐり捨てるコストを支払う覚悟が決まれば、当事者としてなりふり構わない動きができるということです。

綺麗ごとでは片づけられないグロテスクな現実が目の前に横たわっているとき、私たちは指摘、提案、啓蒙ではなく、とにかく当事者になって苦しみを自分の体に刻むことから始めなければいけないのではないでしょうか。